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2008年01月17日 根無し草

夕刊フジ連載コラム「中川昭一の言わせてもらおう」(11月16日掲載)


哲学者エドモンド・バーグの「真の改革は、保守にしかできない」という言葉もあるが、国や地域の文化や伝統、歴史、誇りを守りながら、国民が本当に幸せになる改革を進めるという保守の理念で、福田康夫首相を全面的に支援していく。


中川サンが執筆致した(らしい)コラム…ってコトであるのでしたが、揚げ足をとるようで甚だ申し訳ないのでしたが、…「エドモンド・バーグ」って誰じゃ。
おそらく、エドマンド・バーク【Edmund Burke】を、「エドモンド・バーグ」と読み間違えておるワケであるが、百歩譲って「Edmund」を「エドモンド」と誤読するのはやむを得ざると解しても、しかしながら、「Burke」を「バーグ」と読み間違えますとは、コレ如何なる事態であるのか。
…そういえば、昨年コノ場にて紹介し申し上げた中川八洋氏の縦横無尽に奇怪千万かつ独創的な書、『皇統断絶』においても、同様のコトが記し上げられておったのを想起致す。すなわち、ソコには次のように書かれてあったのです。(参考リンク:攻撃は最大の防御なり


「われわれ学者は、“近代保守主義の起源”ということで、いつもエドモンド・バーグを取り上げて議論しています」


中西輝政は、実は、バークの著作を一頁も読んだことがない。しかし、平然と「いつも議論しています」と真赤な嘘をつく。学者にあるまじき、その人格には重大な問題がある。Burkeを「バーグ」、Edmundを「エドモンド」と発音する信じ難いミスには眼をつぶってもよいが、バーク保守主義を「どちらかというと大きな潮流に対して塹壕のなかに入って、そういう潮流に飲み込まれまいと必死に踏みとどまっている」などと、逆立ちの嘘解釈をするに至っては、京都大学の“恥さらし”であろう。(二五九頁)


云々、と。
Edmund Burkeの読み方の点に触れて、同じようなコトを書いている。笑止。


エエイ! もー、どーでもいー。
しかし、日本において、曲がりなりにも(?)「保守の理念」を掲げんとする政治家が、あろうことかバークを読み間違えちゃうなんてのは、この国に「保守主義」が如何に根無し草的にしか存在しておらぬかを暗示しているようで、少しばかり物悲しき哉。丸山眞男が『日本の思想』において、日本における諸種の思想が「精神的雑居」性の甚だしきモノであると指摘し、以下のように著したコトに対し、今もって私たちは明確に反駁し得る態勢にあるのか否かとなれば、それは―大袈裟かもしれぬが―誠に恥辱的な惨状を目の当たりにするだけかもしれませんで、どうもスイマセン。


一定の時間的順序で入って来たいろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけでいわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう。…(略)…新たなもの、本来異質的なものまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほどに早い。過去は過去として自覚的に現在と向き合わずに、傍らにおしやられ、あるいは下に沈降して意識から消え「忘却」されるので、それは時あって突如として「思い出」として噴出することになる。(十一〜十二頁)


「保守の理念」を掲げながら政治を司らんとするモノには、せめてバークの思想だけでも己の体内に取り込もうとするくらいの気概を見せて頂きたいと念ずるばかりです。「バーグ」なんて申している場合ではない!

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