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2007年12月21日 “texas pandaa”というらしい存在

Days“texas pandaa”というらしいバンドの「Days」というらしいアルバムがイイらしい。「pandaa」となっておるのは、私の入力ミスではなくて、彼らがワザとこういう風に命名したらしい。このアルバム中にて最も素晴らしき哉ってのは、他でもないがジャケットらしい気も致すのでしたが(現に私はジャケットに惹かれて聴いてみた次第であった)、中身も負けず劣らず上質らしい。彼らについては何も存じ上げないらしい私、ヴォーカル(+ギター)とベースが女で、ギターとドラムのモノが男らしい。「男らしい」と申しても、筋骨隆々、肉体美を誇り、いかなる危機にも率先して立ち向かうような類の「男らしい」ではなく、この場合の「男らしい」とは“どうやら性別は男のようだ”という意味での「男らしい」であるのです。
アルバムのこと。二曲目の表題曲「Days」でいきなり引っかかりを覚ゆ。どこかで味わいたる響き、残音、声・・・思慮を巡らすにSonic Youthの「Sympathy for the Strawberry」の一節を彷彿とさせる構造であるか。斯くしてキム・ゴードンと姿がごく矮小なる一点にて交わらんとするも、やや趣を異にする故に、どうもシックリと来ないのでありまして、ソコがこの“texas pandaa”というらしいバンドらしいバンドの面白みの一つであるらしい。Sonic YouthやらMogwaiやらThe Jesus and Mary Chainやらの有名所を無理矢理引っ張り出してきて、彼らを器の中にて混ぜ合わせ、卵とお醤油をかけてもう一度混ぜ返し、ソレを神棚に供えて二日くらい放置したる後に、火を通して食せば、おそらくこの“texas pandaa”というらしいバンドと瓜二つの味になる。一言付け加える必要があるかもしれぬが、コレは大いなる讃辞でございます。


深い「嬉しさ」が必然的に「喜び」へ推移するに反して、深い「悲しみ」は「歎き」へ開かずにみずからの中に閉じ籠ろうとするのである。(「情緒の系図」)

と斯く申し上げたのは、日本の哲学者九鬼周造であったが、まさに至言である。この“texas pandaa”というらしいバンドに開放性はあまり感ずるトコロがないらしいけれども、その分、光を放つような疑惑的なる殻の中より「悲しみ」にじっと対峙しておるかのような情景を想像させる辺りなどは、まさに一つの表現体としてのバンドというモノの機能が、ある種健全に、ある種中毒的蒙昧さを兼ね備えながらも、自らの欲する軌道に従って回転しておることの左証と見ることができます。


音楽のフィールドにおいて、「憂い」を自家発酵させるコトで体得できる情念は何たるかと云えば、私は真っ先にこの“texas pandaa”というらしいバンドを持ち出して来たいらしい。このアルバムの内部から伝わり来るイメージには、軽薄で浮かれ切って楽観的な享楽精神があまりにも感じられないコトを以て、私は彼らに短命であって欲しくはないと願い、その将来のより偉大なる発展へと思いを馳せるのであった。斯様な響きの集合体を、今の時代は欲せざるか否か。

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