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2007年12月28日 限定され得る想い出・序章

我が実家より世界中へお届けする「限定され得る想い出」シリーズ、の序章であります。
つまりカッコつけたようなタイトルはさて置き、何のコトはない、私が過ごしてきました土地の写真をココに載せるだけのモノなのであったが、今日は昨日に引き続き一つだけ掲載させて頂こう。
だって、お外が雨だからさ。
今回は私の家から適当に撮影致した一枚の風景写真を披瀝す。窓を開けたれば、其処に展開する光景がすなわちコレである。


お外の風景


能う限りプライバシーに配慮して小さな画像のみとしましたが、万が一、本当に「万」に一つ、奇跡的にも私の実家近辺に住んでおるモノが見れば、私が何処の誰で、如何なるロクデナシかが余裕で判別致すような写真かも知らん。
高層マンションや工場などはおろか、コンビニやスーパーすらも存在しない土地でございます。最寄りのコンビニに至らんとすれば、自動車でおよそ六百秒ほど、すなわち十分ほど行かねばならぬ。自然が豊かであるから、従って空気は新鮮な地であるが、風景自体としては閑散として廃れておるような気がしなくもあるまい。なお、写真に関しては超超超超超素人の私が撮影したのであるから、その技術上の「空虚」さは無視して頂きたいのでした。(ちなみに、この写真はこれから載せて行くであろう諸種の写真に先立つモノである故に、そして私は閲覧者に多少なりとも我が意に沿うよう写真を提示したいという実に“不遜”な野心を抱え持ってあって、従ってコレはそうした野心に閲覧者の心理を合致させるため多少の<印象操作>をしてやろうと、あらかじめPhotoshopで色合いや明暗や画質等を編集した写真であることを、ココに明記させて頂きます。つまり、コレはありのままの風景写真ではなく、<私の解釈が入った風景写真>であると思って頂きたい。以後、この写真をベースにして、幾つかの風景写真をココに留め置かんと欲す。)


最後に、我が個人情報漏洩の危機(?)をも顧みず、何故に斯様な愚行を敢えてなすのか、という点について記しておきたい。


おそらく私は此の地に生涯留まるコトはないであろう。それ故にこそ、私は何らかのカタチで今までの記憶や体験や想いといったモノを、カタチにしておきたいと願いました。これからココに掲載していく写真は、私の想い出の断片でもあるのでした。しかもソレは非常に限られたモノの間でしか共有されていないような断片・・・
例えば東京や名古屋や大阪や神戸といった大きな都市で生まれ育ったモノは、必然的に子供の頃の想い出の地なるモノも、比較的多くの(諸種入り乱れた)モノたちと共有する状態でしか存在していないのではないでしょうか。俺とコイツとアイツしかココでは遊んでいなかった、といったような場所が都市の中にどれほどあるか。例えば田舎の町であれば、山の中なり溜め池の周辺なり枯れ果てた川に架かる橋の下なり廃屋の中なりの様々な場所に、少人数のグループしか足を踏み入れていない<限定され得る想い出>の地というモノがあるのです。今回私はそうした<限定され得る想い出>の写真を幾つか撮りたいと思っている。(枯れ果てた川に架かる橋の下や廃屋へは[実際、近所にはあるけど]行かんよ)
主にこれから撮るであろう写真は、小学生時代に何度か赴いた場所のモノであるが、ソレはとりわけ私の中に“特殊な体験”として根付いているモノであるからに他ならぬのでした。(高校生や大学生になって橋の下や廃屋で遊んでたら、ソレはただの不審者だ)
そうして、ソコには一つの訣別の意を込める。
現在のように時折実家に帰省した時でも、子供の頃に遊んだ場所へは向かわない。ソコはもう自然に私とは離れた場所になってある。ただし、完全にコチラから別れを告げたような場所ではないので、非常に曖昧な状態で、私の記憶に絡み付いているコトも確かなのでありまして、ソコへ今回は訣別の意を伴って、向かわんと欲す。そうして、その地を写真というカタチに変換して、私は自らの手元に留め置きたいのでした。
しかも、斯かる純粋に個人的な試みを、私はサービス精神が旺盛だから、ついでにブログ上に掲載しようとする善意も共に働いておるのだ!


外は雨。別れの予感を感じてすすり泣く空である哉。

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