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2007年12月26日 ないものねだり

甚だしき田舎の町より。否、「町」と述べるより「村」と述べたき程の場所であった。
一年ぶりの実家なのですが、どうも閉塞感、疎外感、孤独感が増長されておるような気になる。つまり、単刀直入、<物寂しい>のだ。もう貴様の居場所は此処には存せぬ、と申し渡されたかの如き一種の差別的待遇を無意識裡に受けてあるような、斯様な精神的重圧を受けるのは、何故でありましょうか。家族から虐げられておるワケでは毛頭ございませぬが、かといって万歳三唱を伴って歓迎を受けるワケでもあらず、ソレはまるで宅配業者が荷物をトラックに投げ入れました瞬間を目撃致した時の、あの我が身とは無関係にも関わらず生じる妙な違和感…或いはコレを、あらゆるモノに対して善意を期待し過ぎるあまり、現実の動態にソレを覆されそうになった時に生まれる何ら正当性を持たぬ抵抗意識のようなモノと、それに対置さる現実肯定意識が相互にせめぎ合いの熱闘を演じておるかの如き、精神が自己の内部における安息の地を求め彷徨う過程に発生します能動性と受動性の結合の不一致に似ておると申しても良いのでした。って、何のコトやら解らん。書いた私が30%くらいしか解っておらぬのだから、第三者はもっと解らぬでありましょう。


兎に角、今、私は<物寂しい>。
かつて暮らしたる此の地は、もはや私の中には在らぬ。ヒドくこの身を離れてしまっておる。再び此処に戻って来られるのでしょうか、そもそも戻ってくるコトなどがあるというのだろうか。意識的に手放さなければならぬモノがあれば、其の時には言いようなき激しき寂しさとの闘いが待ってあるのですが、無意識の裡に手放したもの、また一方的に離れて行ったモノに対しては、ソレが離れたる事実を自覚致しました時に、まず感ずる心情というのは、現在私が晒されておるようなこうした<物寂しさ>なのではありませんか。意識的に手放す瞬間において生ずる寂しさには痛みを伴っていますが、そうではない瞬間における寂しさには悔恨に似たもどかしき寒気があります。


そうすると、私の安息の地はいったい何処にあるのであろうか。

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