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2007年12月13日 「絶対」に近似する<仮説>

この世において確かなるコトは一つしか無い、と私は思い続けているのでありました。その一つというのは、「生まれ落ちたモノはやがて肉体的な死を迎える」。唯一コレのみが、この世における言わば<絶対的>な事実であり、それ以外のコトはいずれも「絶対」ではない。
作家の半藤一利さんは、戦時中の体験(米軍の攻撃から俺が助かったのは“偶然”でしかないという思いを獲得した経験)から出発し、この世に「絶対」というモノなどはありゃしないぜベイベー、って信念を以後一貫して持ち続けていると様々な場所で語っておられますが、如何なる出来事にしても、また如何なる思想にしても、「絶対」が適用できるようなコトは、結局<死の到来>以外にはないのではありますまいか。
それ故に私は「平和」も「平等」も「自由」も「友情」も「愛」も、いずれも<絶対的>なモノであるとは思わない。それは人々の“気分”の問題が作り出した<仮説>でしかあらぬ。しかし、この“気分”ってのがなかなかのクセモノで、人々は漠然とではあるが共通した想いを抱くものである。この漠然とした点については、ヴィトゲンシュタインの名言「語りえぬものについては、沈黙せねばならぬ」を持ち出してくる他ないが、人々は「戦争」よりも「平和」を、「束縛」よりも「自由」を欲します。それは「絶対」ではなかろうが、だが“高度に信頼の持てる気分”であるとはいえよう。そうして、その“高度に信頼の持てる気分”が集積致しました結果生誕し来ったモノが、あの「法の支配」における「法」の概念である。斯様な解釈は稚拙で下らんと思われるかもしれんが、私はココで手っ取り早くそう申し上げたいのであります。
話は戻る。この世における如何なる物事も所詮は一つの<仮説>でしかあらぬ、というその考えは何も特異なモノではない。今日まで斯様な考えを抱いた輩は多くいた。「脱構築」に象徴されるポストモダンという学問分野なぞも、少なからず斯かる状態と関係があるってモンだ。吉本隆明がアノ世紀の奇術書、難解書、魔書『共同幻想論』にて出発しようとした地点も―より複雑ではあるが―ココでいう<仮説>と関連する部分もあるのではなかろうか。が、やはりそれではイカンのだよ。この世の全てを<仮説>であると致しますと、やがて勘違いした哲学者や学者や作家などが登場し来たりて、己の手で新たな<仮説>を創作せんとする野望を抱きまして、自らに都合の良いような秩序構築を企図し、世の中を混乱させうるコトも不可能ではない。ソレは確かに極めて行き過ぎた想像でしかないのかもしれませんが、それでも、敢えて問いたい。一代で多くの<仮説>を覆し、それに代わる新たな<仮説>を提示できるとでもお思いで?
けれども、<仮説>は<仮説>かもしれぬが、そうかと言ってソコには見逃せぬ事柄があるのでした。それは「絶対」への距離(<絶対的>らしいモノへの距離)である。<仮説>が「絶対」に転換するコトは、まず無い。が、「絶対」に近似する<仮説>(=人類史の中で脈々と形成されて来った覆し難い<仮説>)は存在するのではなかろうか。


まとめる。
この世に<絶対的>なモノは<死の到来>を除いて見出し難いが、人々の間には<絶対的>と思われるような“気分”(それもやはり<仮説>に過ぎぬのだが)=限りなく「絶対」に近似する<仮説>、というモノがあるはずで、それが「法の支配」の「法」であるコトは信頼に足る<仮説>であると私は考えるのでして、そうして私たちの身近な場所にも「絶対」に近い存在の<仮説>というモノはなかなか多様な具合で置かれてあって、日々の生活の中で人々が申す「絶対に〜」だとか「疑いなく」なんて文句も、その根っこを追い求めてみれば、結局「絶対」に近似する<仮説>に辿り着くはずなんだけども、ソレを私たちは見逃しておらぬか。彼や彼女や、あのゲイやあのレズが、仮に「絶対」という言葉を用いるならば、その裏には堆積された途方も無い数の人々に共通する“気分”が存在しておるのです。ヒトは「絶対」に近似する<仮説>を信頼するコトで、普遍的な概念であるとか制度であるとか思想であるとか、斯様なモノを築きあげてきた。ソレは長い長い期間を経て積み上げられてきた人類の“気分”の代名詞的存在であるというべきなのです。
問う。
誰がその“気分”に反逆できるか、誰がその“気分”を「再構築」できるか、誰にそれだけの力があるか。
信じる。
あらゆるコトは<仮説>かもしれぬが、だから何だと申す。それであるなら、今も、そしてこれからもずっと、私たちに課せられておる役割は、自分たちを支えておる<仮説>を、「絶対」に近似する<仮説>へと押し上げていくという、そのコトに尽きるのではありませんか。そうするコトでしか人間なんてモノは自らの“気分”を健全なモノとしていくコトはできぬのかもしれぬが、だからと言ってそれの何が悪い。無数の重ね上げられた“気分”に思いを馳せる時に、私たちがなすべきコトは、それらの“気分”を裏切らないって一点だけを以て、それ以外に何が必要であろうか、いいえ、もう結構なのです。

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