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2007年06月27日 馬鹿が馬鹿を語る

このブログの六月の更新度は異常である。なぜこの馬鹿は斯くも更新するのか?そう思われても致し方ない。理由が無いわけではない。
私は夏が苦手だ。暑くなるとイライラしてやる気もなくなる。7月8月が最大の山場だ。その時期にはブログを更新する気力など無くなるかもしれないじゃないか。だから今のうちに書き溜めておこうというわけなのだ。
馬鹿みたいな理由だと嗤うな。私にとっては死活問題なのである。


それにしても、最近の私は自分のことを棚に上げて「馬鹿」という単語を使い過ぎる。
そもそも「馬鹿」とは何であるか。
今のトコロ、私はそれを次のように定義したい。


「馬鹿とは、外からの視点を持とうとしない者のことである」


単純明快。自分の姿、言動、思想等に関して、外から問い直そうとするか否か。すなわち客観的な視点というものを意識できるかどうかである。
例えば暴走族、例えばコンビニの前にたむろする若者、例えば数年前に話題になったヤマンバギャル、例えば狭い道で身勝手な運転をするドライバー、例えば社会保険庁、例えば日本の安全保障対策、例えば北朝鮮という国家・・・
どれも外からの視点が欠落している、自分(たち)しか見えていない、自らの世界だけで物事を完結させようとしている、合理的思考というものを持とうとしない、己だけが良ければそれで良い、という閉塞された空間に佇んでいる。コレを馬鹿といっても良いだろう。
外からの視点がなければ、物事に対して酷く偏った見方をしてしまう。自然に自らの価値観を絶対視してしまう。そしてそのことに気付かない。視野も狭い。自らが許容できないと思うモノや相容れないと思うモノは、すぐさま己の対象外に置いてしまう。他を認識することにより、自らを相対化しようとすることをしないのである。コミュニケーション・ギャップや価値観の相違に出会ったとき、己の立ち位置を再確認しようとはせずに、ほぼ反射的にネガティブな姿勢を形成する。それは言うまでもなく、現在、自らの抱いている意識を再構築する機会を失しているということだ。己の内的意識を無反省に維持しようとし、あたかもそれが既に完成されたものであるかのように振る舞う。これ以上に厄介なものはない。


とは言いつつ、外からの視点を安定して恒常的に持ち続けることなどは、神でもない限り不可能だ。だから私は「持とうとしない者」といった。持とうとする者と持とうとしない者ーすなわち持つことを知らない者とでは大きな壁が形成されるということだ。無知の知。
外からの視点による、自己の再考、再構築。それを通してのみヒトは成長出来る。馬鹿は体格以外には何も成長しない。大人になってしまえば、本当に何も成長しなくなる。
馬鹿は止まっているままなのである。しかも他を見ようとしないから、自分が止まっていることにも気付かない。もう絶望である。死に至る病である。


外からの視点の起源は、内への視点である。つまり内への視点にて己に疑問を抱く所から、外への視点が生まれる。
馬鹿の場合、内へ向けられる光は、途中で腫瘍にぶち当たって屈折してしまい、深奥まで到達することがない。反射して返ってくるモノが無いから、畢竟外に対して働きかけようとするエネルギーはどこからも生じてこないことになる。
暗闇の中にいると、明かりを発する者は浮いてしまう。そうして必然的に、外に出て来ようとする光を抑え込んでしまうのである。暗闇に安心して、むしろ光の無い状態、光を抑え込んだ状態を常態だと錯覚してしまうのである。要は思考停止。だからヤマンバギャルみたいな馬鹿が蔓延る。


馬鹿は感染する。
防ぐ方法、それは内から光が出てきたのなら出す。それだけだ。
そこに外からの視点を持とうとする意識が発生し、成長のきっかけも生ずる。
光を無理に抑え込んでいると、無意識のうちに己の内部に腫瘍が形成されるようになる。それを放っておくと、光はどうやっても外に出てくることが無くなるだろう。末期の馬鹿。…私のコトか!?


馬鹿が馬鹿を語る。それは貴方の光源なのです!

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