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2007年06月09日 「運命」のヒント

『デミアン』このブログにひっそりと佇む「必読書」のカテゴリー。ずっと放置し続けるのも可哀相だから、一つ追加しよう。


ヘルマン・ヘッセの『デミアン』
これは私にとって最愛の書である。地獄に持っていく一冊を選べと言われれば、おそらくこの本にする。天国となれば・・・もうちょっとハッピーな本にするかな?(おそらくヘッセは、地獄で『デミアン』を抱きながら苦しむ私を尻目に、天国で笑いながら優雅に過ごしていることだろう)


最初にこの本を読んだのは、高一の時。
高校入学直後。
私が入った高校では“朝の読書時間”みたいなものがあって、毎朝10~15分間読書をする時間が設けられていた(ちなみにこの読書時間はいつの間にか消滅した)。そこで私は、その時間用に何か適当な本を買って来てくれ、と母親に頼んだところ、買ってきたのが本書である。本を買いに行くのが面倒だったから、母親に頼んだ。そうしたらこんな驚異的な本を買ってきやがった!母はヘルマン・ヘッセなどは知らない。おそらくは安価だったから買って来たのであろう。いやいや、而してこれはとんでもない本である。まさか母親によって知らされた本が、自分の中でこれほどまでに重要な位置を占めるものになろうとは!


とは言っても、最初にこの本を読んだ時は、難解でイマイチ理解ができなかった、多分、半分くらいしか読んでいなかったように思う。
それから月日は流れて、私は高校を卒業し、大学へと進んだ。大学生になってからのある日、ふとこの本の存在を思い出し、今度は自分で買った。今度は全部読んだ。目から鱗が落ちる、とはこういうことを言うのじゃないかしらんと思った。
何というのか、人生の格言的な言葉が随所に散りばめられているのだ。今でも、私は定期的にこの本を開き、好きな箇所を黙読する。時に音読する。(ところで、私が小説で文中に線を引いてあるのは、本書だけである。)
未だにどう理解すべきか悩む箇所も多いが、それでも自分にとっての重要な言葉が溢れ返っていることだけは確かである。以下にいくつか書き出してみよう。


私たちの内で働いているのと自然の内で働いているのとは、同一不可分な神性である。外界の世界が滅ぶようなことがあったら、私たちのうちのひとりが世界を再建することができるだろう。なぜなら、山や川、木の葉、根や花など、自然界のいっさいの形成物は、私たちの内部に原型を持っており、永遠を本質とするところの魂から発しているからである。私たちはその魂の本質を知らないが、それはおおむね愛の力や創造者の力として感じられるのである。(139頁)


多分に哲学的な文章である。なんだろうか、これは。「外界の世界が滅ぶようなことがあったら・・・」という部分はプラトンのイデア論なんかに影響されているようにも思えるし、「愛の力や創造者の力」という部分だけを見れば、キリスト教の思想に忠実であるようにも思える。
様々な角度から捉えることのできる箇所だが、決して忘れる事のできないものである。


他にもこういったものがある。やや長くなるけれど、それぞれ引用することにする。

ほんとうに自分の運命以外のものはなにも欲しない人には、もはや同類というものはなく、まったく孤立していて、周囲に冷たい宇宙を持つだけだ。ゲッセマネの園におけるイエスはそうだったのだよ。喜んで十字架にかけられた殉教者はいた。しかし、彼らも英雄ではなく、解放されていなかった。彼らも愛しなじみ親しんでいるものを欲し、手本や理想を持っていた。運命をのみ欲するものは、手本も理想もいとしいものも慰めとなるものも持たない。人々はほんとうはこういう道を歩まねばならないだろう。ぼくやきみのような人間はまったく孤独ではあるが、それでもまだおたがいというものを持っているし、ほかの人とは変わっているとか、反抗するとか、並みはずれたものを欲するとか、そういうひそかな満足を持っている。あの道を完全に進もうと思ったら、そんなものは没却されねばならない。革命家、模範、殉教者などであろうと欲してもならない。一々考えることはできないくらいだ━━(170頁)


人類の歩みに貢献した人々はみな等しく、運命に対する用意ができていたからこそ、有能有為だったのだ。それはモーゼにも仏陀にも、ナポレオンにもビスマークにもあてはまる。人間がどんな波に仕え、どんな極から支配されるかは、自分がかってに選びうることではない。もしビスマークが社会民主党員を理解し、そこにピントを合わせたとしたら、彼は賢明な人であったかもしれないが、運命の人ではなかっただろう。ナポレオン、シーザー、ロヲラ、みんな同様だった。それを常に生物学的に進化論的に考えなければならない。地球の表面における変革が水棲動物を陸地にほうり上げ、陸棲動物を水中にほうりこんだとき、新たな前例のないことを遂行し、新しい順応によって自分の種を救うことができたのは、運命に対する用意のできていたものだった。それが以前その種の中で保守的なもの持続的なものとしてひいでたものであったか、あるいはむしろ変わり種であり変革的なものであったかどうかは、わからない。彼らは用意をしていた。だからこそ自分の種を救って、新しい発展に進むことができたのだ。それをぼくたちは知っている。だから、用意をしていよう。(193頁)


壮大でありながらどこか漠然とし、覚醒的な部分をも併せ持つ文章(思想)であるが、なぜか妙に惹かれてしまうのである。おっと、あまり個人の感想は言わないでおこう。私の言葉などはどーでも良いのだ。
最後に、次の一文を記して、今回の幕を閉じようではないか。


なぜ彼らは不安を持っているのか。人は自分自身の腹がきまっていない場合にかぎって不安を持つ。彼らは自分自身の立場を守る決意を表明したことがないから、不安を持つのだ。自分自身の内部の未知なものに対して不安を持つ人間たちばかりの団体だ!(178頁)


※ここで記しているページ数は新潮文庫版(高橋健二訳、右上画像参照)のものです。

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