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2006年09月08日 禅問答

真説 ザ・ワールド・イズ・マイン「ザ・ワールド・イズ・マイン」が復刊された。しかも「真説 ザ・ワールド・イズ・マイン」となって。


微妙に台詞が変更されてたり、加筆ページがあったりして嬉しい。
違いを見極めるのも楽しい。
しかも結構売れてるみたいだ。


読み直しながら改めて思ったこと。
まず、登場人物の言動が、スゴく"ありそう"。
かなり現実的な台詞を吐いたり、傍観者的な視点で物事を捉える人物の立ち居振る舞いが、今眼前で展開されても納得できそう。そういう場面が多い。
で、トシの母親のシーンと、トシが変化する場面は思ってた以上に大きな役割があるということ。
物語全体からいえば、ユリカンが回答するシーンも大きい。それと同じくらいにトシの家族に関連する一連の場面も、完全にその後の展開の礎となっている。
非人間的なモンちゃんとあくまでも凡人的なトシの対比。それを決定的にしたのが、ココだと思う。
そして、人を殺す場面での、あっさりとした描写。
人の生き死になんて、実際は凄く簡単なもの。だからこそ、それを知る度に残酷に思えたり、悲壮的な気分になったり、尊さを覚えたりする。
その軽薄な感じをもって核心をついてくる新井英樹の表現力・表現方法には背筋が凍りそうだ。


あとは、モンちゃんとヒグマドンの対峙(対決?)の場面とか、飯島猛にも改めて思うことはあるけど、とりあえず、物語全体を支配する"末期感"みたいなものは、いつ見てもゾクゾクする。この独特の雰囲気が、この作品の特別なところ。


それにしても、この漫画は最初の頃から決着がついていたんだな!
基礎的な世界そのものは、不動のものとして完全固定されている。
もしかしたら現在の世の中も、もう既に本筋は決まっていて、固定されているのかもしれん。それを知っているフリをして渡るのがトシで、何も知らないで"純粋"に渡るのがモンちゃん。
世界を動かすのはどちらか。「ザ・ワールド・イズ・マイン」と思いながら、世界を揺さぶれるのはどういうヤツか。
そういう問題を改めて人類史に問いかけるような漫画、といえば大袈裟すぎるか。

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