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2006年07月22日 「桜」と「自死」

最近読んだ本
「ねじ曲げられた桜」大貫恵美子著 岩波書店
「自死の日本史」モーリス・パンゲ 筑摩書房


ともに所謂"大作"という部類に入るだろう。頁数はかなりのものだった。だが内容はそれよりも充実。


「ねじ曲げられた桜」の方は、桜という日本人の美意識の象徴に焦点を当て、それが内包する意味を説き、「軍国主義政策」と桜の関係を論じていく。関係といっても、軍国主義を推し進めようとした軍部が、いかなる形で桜の美的価値を利用したのかという点に集約される。
軍部が桜を用いて巧みに日本人の美意識に訴えかけようとしたそのプロセス、そして美意識を操られることで無意識に思想形成されていく私たちの危うさ、それはたとえ意識していようとも、微妙な点からズレていくのだということを明らかにする。


この本のテーマの一つとして特攻隊員の思想考察という一面も有している。それはつまり隊員たちの内面を探ることで見えてくる彼らの真実の姿と美意識という問題に帰結する。軍国主義イデオロギーの中で育ち、二十歳前後にして自らの運命に決着をつけなければならなかった特攻隊員たちが抱いた思想(とりわけ美意識)を探求することで、ありのままの軍国主義、若者の本音を捉えようとする。


著者は「ナショナリズム」と「愛国心」というそれぞれ異なる概念を提示する。政治的力の加わったものを「ナショナリズム」、純粋なる祖国への愛情を「愛国心」と定義し、美意識の問題と関連付けて、それが終戦に至るまでの間にいかなる変遷を遂げ、日本人はどのような影響、被害を受けてきたのかを暴くのである。


以下の一文に記されていることを、私たちは忘れてはならないであろう。
「美的価値は、国民がもっとも大事にしている価値(自分たちの国土・歴史・理想・純潔や犠牲という道徳律)を表現する象徴に付与される。人々は『美しさ』に反応し、自分たち自身の理想主義と美的価値に応じてそれを解釈するが、その一方で、国家は人々を『動員』するために同じ美的価値と象徴を利用することが可能である」


さてもう一方の「自死の日本史」は、日本人の「自死」、つまり自ら命を絶つ行為(自殺的行為)について述べたものである(日本人論)。
「自死」といってもそれは、無目的なものと、はっきりと目的を持っているものがある。
ここでは、後者について述べられている。
武士に見られる切腹から、近松門左衛門が主要なテーマとした心中、さらには北村透谷をはじめとして芥川や太宰や三島由紀夫らに代表される近代作家の自殺問題等々。
至る所で繰り返されてきた日本人の「自死」は、西欧諸国におけるそれとは全く異なった意義を持つものであるとして、著者は常に西欧の哲学者や小説家、そしてキリスト教の思想といったものと日本人の思想(ここでは主に仏教、儒教、禅等をベースとして形成された武士道的思想や社会に定着していた民衆の価値観や伝統など)を対置させた考察を試みる。
そこに見られてくるのは、「死」することによって「生」を見出すことを常としてきた日本人の姿である。
別の言い方をすれば、日本人は正しい「死」を追い求めてきた民族である。「死に場所を得る」という言葉に象徴されるように、日本人は自らにふさわしい「死」(「自死」)でもって「生」の価値を、その正当性を、その真実味を、自分自身に与えようとする一方で、他者に教え込もうともしてきたのである。例えば、武士にとって切腹をすることは一つの名誉であったが、彼らは切腹によって自らの「生」の正当性を証明し、一方で他者は切腹したものを誉め讃えたのであった。


日本人が真の「生」を得るために、「自死」という行為を臆することなく公使してきたその歴史が明らかにされる。
著者はこのような「自死」を「意志的な死」と呼ぶ。日本人は明確な「意志」を持ち「自死」したのなら、それがいかなる「意志」であれ、死した者に対しては重い意味を与えようとしてきた。それらのことが具体的事例によって例証されていく。


「自死」、特に「意志的な死」に集約される日本人の価値観、歴史観、生命観、アイデンティティー。それが一人のフランス人によって、実に鮮やかに示されているのだ。


・・・こんな糞みたいな内容説明で興味を持った方は是非一読を。
ただ、「自死の日本史」の方はもはや古本でしか入手できないかもしれませんが。

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