« 三十路過ぎにて | もどる | ゴール地点。またスタート、 »

2006年06月23日 プロフェッショナル精神醸成の為に

日本惨敗! 川淵辞めろ…神様にすべてを丸投げ


これは、なかなか面白いことを書いている。
この記事に書かれていることが、正しいか正しくないかという前に、メディアはこうした冷静な視線、冷静な意見を世間に出すことが大切なのではないか。ねぇ。
今まで日本のメディアは、すぐに「健闘を讃える」という甘美なセリフを用いて、あからさまな批判は避けてきた(一部のスポーツ新聞や週刊誌では、批判はなされてきたが、それらは往々にして面白半分のものであった)。でも、


今回のWCはプロの選手が出ている。プロは常に結果を出すことが求められる。結果を出せなければ、批判をされるのは当然のことだ。
それを受け入れることができない、納得できないというなら、ソイツはプロ失格だ。


日本人が今まで、あからさまな批判をしてこなかったのは、古来から日本人の精神に宿る「情け」という概念に関係しているのかもしれない。
確かに今でも、「情け」という考え方に触れることは、容易い。
しかし、私は、プロ…プロフェッショナルな人々を前にしたとき、「情け」という情でもって讃えるばかりであるなら、それはマイナスの効果しかもたらさないように思う。
結果を求められる職業をしている人物に「情け」は無用なのだ。


批判するのだって、メディアだけではない。むしろ日本メディアは、今後もほとんど期待できない。そこで一ファンが真摯な姿勢で積極的にプロに対して批判していくことが必要になる。
というか、プレーするものに対して何らかのアクションを示すことが大切であると、私は思う。


今までの日本では、外野からのアクションがほとんど見られなかった。そのため「プロ意識」というものが醸成され難い環境であった。
それは…現在においても、ほとんど改善されていない。
頻繁に指摘される日本選手の「メンタル面の弱さ」における原因の一つは、こうした所に見られる。(モチロン、それよりも選手個人の意志、心がけの方が何倍も大きな原因であろう。しかし、ファンからの意見が選手を動かすことがある、という点を忘れてはならない。)


様々な人が、プロに対して意見を出す。また、他人の意見を参考にし、自分の意見を再考してみる。
そのような過程が、成長に導いてくれる。
批判するものの見識・知識が上がれば、それは批判される対象にとっては、より現実的価値を有するものになり、プロを精神的に、技術的に向上させるひとつの要因になり得ると思う。


しかし、ここでひとつ問題となることがあるのだが、それは批判と誹謗・中傷を混同してしまう輩がいることだ。
簡単に言うと、批判とはマジメな態度で、改善すべき点や良くない点を発言することであり、誹謗・中傷とは単に相手をバカにした発言をするだけの、いわば悪質なイタズラ的下劣行為のことだ。
批判と誹謗・中傷を区別し、健全な批判をすることが大切だ。


今回の記事は選手に対するものではなく、それを統括する立場…つまり大元に対する批判である。
これは、選手へ向ける批判よりもさらに複雑だ。結果を出す現場にいる人々ではなく、裏で操っている者たちに対して向けられる意見の場合、往々にして選手が抱えるしがらみよりも見え難い、醜い背景が幾多も存在しており、それらをひとつひとつ整理しておかねばならない。
この川淵に対する意見だって、ここに書かれている以上に厄介な問題が、間違いなく存在しているだろう。
意見を出すものは、冷静にそれらの事柄をひとつひとつ捉えて、自分なりのモノを提示していく必要がある。
それは個人のブログでも掲示板でも良いように思う、とりあえず冷静な意見を出すことが求められる。


今の日本には、よく知られているようにメディアの意見を制限させる力を持った諸団体が存在しており、そのような屑団体がメディアの発展、そしてプロの発展の足枷となっている。
だからこそ、ひとりでも多くの者が、発言できる場で発言して、「プロ意識」を醸成させるように導いていくことが必要になる。メディアをアテにするより、個人が発言できる場を見つけてアクションを起こす必要があるのだ。


ファンがアクションを起こさず、「情け」という概念に縛られている限り、日本のプロ…プロフェッショナル精神は、これ以上伸びないのではないか、という危惧を、私は抱いている。ノデス。

トラックバック

この一覧は、次のエントリーを参照しています: プロフェッショナル精神醸成の為に

  •  さて、予想通りジーコジャパンは惨敗で敗退。日刊ゲンダイには「日本惨敗」「世界の笑いものジーコジャパン」「奇蹟など起こるはずなし」「このお粗末な実力で1次... [続きはこちら]

« 三十路過ぎにて | もどる | ゴール地点。またスタート、 »