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2006年05月28日 郷土愛→愛国心の謎

そもそも愛国心なんぞは学校で教えるようなものなのか。どうやって教えるのだ。日本は素晴らしい国ですから、皆さん好きになりませうね。なんていうのか。バカらしい。学校で無理矢理に教わるものでもなかろうに。こんなことを教えなければいけなくなったのは何故だ!日教組がいけないのか! 一体どうなっているんだ!!正しい歴史認識とか出来る限り客観的な思想を学校で教えれば、それがすなわち愛国心形成に至ると思うんだけどなぁ。


愛国心は、まあ、良いとして、政府はそれと一緒に郷土への愛着も教えたいみたいだけど、このやり方がちょっと気になる。元来郷土への愛着である郷土愛(パトリオティズム)と愛国心とを同じ繋がりで教えることはおかしくないか。郷土愛と愛国心は実は別もんじゃないか? なんか無理矢理に混同させてグチャグチャにしようとしている気がするでごわす。


郷土愛というのは、自分が生まれ育った地、そこにある自然や町並み、使い慣れた方言、その地域だけの伝統や風習など、そういうものに基づき、ヒトにとって凄く根源的なものであり、無意識に形成される。そして非常に限定された狭いものでもある。また一切の政治的思想や政府組織・権力体制とは無縁のものである。
だから、仮に母国の政治や政府組織が崩壊しても、郷土愛は消えるものではないだろう。自分にとっての故郷が存在し続ける限り、郷土愛というものは残り続ける。
一方の愛国心というのは常に外国との意識の上に成り立つ。国という概念が無ければ、愛国なんていう感情は生まれない。
無意識に形成されていくのを常とする郷土愛と、実は母国・外国という意識があって初めて湧き出てくる愛国心。
郷土愛の延長線上に愛国心があるというが、実際はこれら二つのものは、元来異なるものではないか。


もの凄く飛躍した話かもしれないが、こういう考え方もできる。
もし今自分の母国が植民地化されたら、それまで自分が属していた国への愛着を捨てて一気に領主国となった国への愛着心(愛国心)が持てるかどうかという問題。普通は持てないだろう。そうすると植民地化されたら、愛国心というものは無くなってしまうのだろうか。形式上は自分が今まで属していた国が吸収されたような形になるわけだから。愛国心を持とうにも甚だ面倒なことになる。クリリンは18号が好きだったけどセルに吸収されて18号は消えてしまった。それじゃあクリリンはセルを好きになったかということである。むしろ憎んだじゃないか。手も足も出なかったけど。


このような場合、自分が育ってきた郷土への愛着は変わらず持ち続けられるだろう。郷土自体は何も変わって無いのだから。ただ愛国心となると、寸断されてしまうのが普通の感情の帰着する所だ。
必ずしも郷土愛と愛国心が繋がっているとはいえないことの例になりはしないだろうか。まぁ、こんなことは現代の日本ではまずあり得ない極端な例ではあるが。


しかし、いずれにせよ、無意識の内に普遍的に存在するヒトの根源的な感情である郷土愛と、外国との意識の上に成り立ち、国というものの規定のされ方により変化してしまう恐れがある愛国心との繋がりは実に複雑で、それを同一線上に捉えて良いのかどうか、正直まだよく分からん。
けれども、郷土愛を無理矢理に愛国心に結び付けようとする思想は、若干無理のあるもので、そこに民主主義政府の苦しさというか周到さというか、なんか目に見えない外圧的なものの存在が見え隠れしているように思うのは、考え過ぎだろうか。
それに郷土愛と愛国心の間には、何かしらの障害があって、普遍的・根源的な感情である郷土愛が意外とモロい愛国心のことを邪魔だと感じることもあるかもしれない。滅多にないことだろうけど。


とにかくこれはもう厄介な事柄だ!こんな厄介なものをあんなにあっさりと法律に盛り込んで良いものか。


・・・でもアレだ。こんなことを夜中の3時過ぎに考えてても仕方がないので、もう諦めて寝ようと思う。雑文放棄。私の人生諦めばっかり。諦めが肝心という言葉に甘え過ぎているな。

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