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2007年03月27日 “総体としての音楽”/フランク・ザッパという存在

フランク・ザッパフランク・ザッパの公式アルバム全部、っていったいどれくらいあるか知らんけれども、とにかく全ての公式アルバムをボックスセットにして出してくれ。勿論一組。小出しはダメよ。値段は十五万でも二十万でも良い、購入するから。借金してでも購入する。そして、それがおそらく私の一生分の音楽になる。


というのも、私は今まで色んな音楽に手を出して、「何かオレの知らないワクワクするような世界があるんじゃないか」と思い続けてきたんだけど、最近になって音楽(民族音楽や伝統芸能に組み込まれるモノ以外の音楽)では感じられるワクワクに限界があるような気がしてきたからだ。確かにプレスリーもビートルズもディランも良いし、プログレやパンクやハードロックやメタルも面白い。マイルスもキース・ジャレットも素晴らしいし、ノイズやサイケや即興モノも楽しい。
でもコレは欠かせないというモノは無い。つまり単体としては面白いけど、“総体としての音楽”という広大な視点を持って見た場合に、私の中で、実はどんな音楽と接するコトにも意義なんて無いんじゃなかろうか、という疑念が生じ始めたのである。この疑念を解消しない限り、ワクワクもハラハラもあったもんじゃない。
しかし思うに、“総体としての音楽”とは、そもそも何ぞや。まずはそれをハッキリさせなければならない。それを確認せずして、面白いも詰まらないも重要も不必要もあったものではない。
だが、それを知るのは実に困難なことだ。五十年間ずーっと音楽を聴き続けても容易に理解できるものではないだろう。事実、私も“総体としての音楽”という観念をまず思い描いてみたものの、その実態をどうやって摑むべきかを苦慮している。けれど、それを朧げながらでも知らない限り、私が抱いた音楽への疑念も払拭できないままでしかない。


そうして、ココに俄然と出てくるのが、必然的にフランク・ザッパという存在である。
化け物のように音楽の大海原を一生航海し続けた狂人・巨匠・天才・気狂い・鬼才、ええーい冠は何でも良い。とりあえず常人では到達不可能な領域を何度かは見たであろう、この偉人(異人)の膨大な作品を一纏めにすれば、私の思う“総体としての音楽”なるものが、かなり明瞭になるのではないかと思うのだ。


フランク・ザッパは一人で音楽の持ち得る可能性のほとんどを暴き出した、と私は思っている。
彼の多額の遺産を無駄にせず、公(これが私のいうボックスセットのこと)にしてくれれば、それだけで“総体としての音楽”というものに接することが出来、私のモヤモヤも吹き飛んで、それがワクワクに変わるかもしれないというコトだ。
そうやって考えれば、結局のトコロ、ザッパの多量の音楽ひとつで全てが賄えてしまうのではないかということにもなる。
彼の音楽はそれだけ懐が広い。言うなればモンゴルの草原のようなものである。広い草原を駆け巡って世界は未知の可能性に溢れていると感動するのか、どこまで行っても同じ光景ばかりじゃないかと呆れ果てるのかは、分からない。しかし、駆け巡るだけの価値は十二分にあるだろう。


その全てに、正解と過ちを、可能性の有無を、希望と絶望を、正解と過ちを、託すことが出来れば、自ずと答えは明確になる。
だからコレは、まずボックスセットを発売して欲しい、というお願いなのであります。衷心からです。

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