« 嘘から始まる一年 | もどる | 大相撲初場所の展望 »

2007年01月06日 阿呆の愚痴

私は阿呆である。阿呆であるから言う。


加藤ローサは天使だ。何処からどう見ても天使にしか見えないのだ。あの豊穣な笑顔、アレを━━━アレなどと言ってしまっては天使に対して失敬千万であるゆえ、彼女の笑顔は「夕焼け輝く波間に映ずる麗朗たる一等星の清輝」と形容しよう。その「夕焼け輝く波間に映ずる麗朗たる一等星の清輝」を見るだけで、私の心は悶々と、いや轟々と鳴り渡るのである。


夕焼け輝く波間に映ずる麗朗たる一等星の清輝を奉戴する女性がウンコなどをするわけはなく、彼女の体内からは事あるごとに真珠が現出されるそうだ。ただし屁はこくというから、さすがの天使であっても体内で何らかのガスが醸成される模様である。そのガスはたまに超クセーらしいが、彼女の端粛かつ繊麗な容姿と気品溢れる艶麗な性格は、その超クセーのを帳消しにしてしまうと云われている。まさに自然の循環、二酸化炭素を吸い込み酸素に変相させてしまう光合成のようなものではないか。

今更ながら思うことであるが、石原真理子のような大した影響力がない者より、よほど自伝を書かなければならない宿命に置かれている人物がいるであろう。その一人は瀬島龍三氏である。この不誠実で、責任回避と曖昧な態度と、偏狭な固定観念に支配されて生きてきた人物は、その生涯を終える前に自らの体験を具に語るべきではないのか。特に大本営参謀時代(ガダルカナルを巡る電報の件等は特に)、停戦時のソ連との間に交わされた一連のやり取り、抑留時代の体験談、共産主義思想との関わりなど、彼が自らの言葉で明らかにしなければならないことは数多残されているはずだ。


おそらく瀬島氏は、自ら体験した真実を一切語ることなく、それを墓場まで持って行く決意なのだろう。そのような男が、若者を前に教訓や人生論を語るなど笑止としかいいようがない。
瀬島氏においては、近代日本の中枢にいたという自覚を有しているのかどうかすら定かではない。仮にそのような自覚を持って生きてきたというのなら、過去の時点で自らの体験を包み隠さずに語ることが出来たはずであるし、今後も出来るはずである。
氏と数々の体験を共にした同年代の方々への配慮から、今日まで語ることを避けてきたというのであれば、もうそろそろ語り出しても良い頃ではないか。
しかし、瀬島氏本人にその気はないようである。


瀬島龍三という人は著しく責任感が欠如していると言わざるを得ない。それが大日本帝国陸軍という非常に特殊な組織のド真ん中に身を置いて来たものの性分なのであろうか。もしそうであるというのなら、日本人は未だに大日本帝国陸軍の幻影に足下を摑まれているのかもしれない。
不誠実、責任感の欠如、都合主義。現在の日本の指導者にも蔓延る体質ではないだろうか。


「戦後」というものを捉えようとするならば、まずは戦前の大日本帝国陸軍のような特殊な体質を有するものを徹底的に解剖・究明し、解体し克服せねばならない。それを克服出来ずに、何が民主主義、資本主義、自由主義、反戦、平和、平等、憲法改正、再軍備・核武装、改革、機会均等、男女平等であろうか。
過去を徹底して解明する意気込みなくして、どこに「戦後」社会の土台を見出そうと言うのか。結局は欧米諸国から与えられた乏しい観点の上に成り立っている「戦後」に過ぎないから、60年を過ぎた現在になって種々の問題が欠漏してくるようなことになるのだろう。
今日において真の「戦後」社会を構築しようとするのならば、やはり瀬島氏のような“当事者”としての経験を持つ方の尽力も求められるであろう、と思うのだ。私は、戦後60年が過ぎた今になっても、完全に大日本帝国陸軍のような存在を解体し切れず、未だに過去に振り回されている現状に一抹の悲しさも覚えるのである。


私は阿呆である。阿呆であるから、嗚呼、また色々と無益なことを言ってしまう。

« 嘘から始まる一年 | もどる | 大相撲初場所の展望 »