« 表裏一体 | もどる | 大関への一言 »

2006年05月13日 発狂音楽諦観

Tubular Bellsウソをつかない音楽というものがある。


私はまずカッコをつけて「ウソをつかない音楽というものがある。」などと書き出してみたのだが、果たしてウソとは何であるのか。所詮そんなものは受け手の中でいかようにも変化するものではなかろうか。
私にとってウソであっても、A子さんにとっては本当なのである。
B助君がウソだと思っても、私は信じるのだ。
そんなものが世の中には無数にあると言っておけば良い。
そうすれば私は哲学者が新進気鋭の現代作家のような気になれるのである。


さて、それならば言い換えなければいけない。


自分にとって常に真実であり続ける音楽というものがある。


これでちょっとはスッキリした。
そうである!「自分にとって常に真実であり続ける音楽というものがある」のだ!
それが何なのか。私にとってそれの代表格は「Tubular Bells」である。


「Tubular Bells」には歌詞のある歌がないから良い。
言葉は信じられない。信じていた言葉に裏切られることは珍しくない。言葉の意味というのは、こうしている間にも変化し続けているのだ。
だから言葉でしか互いの意思を交わそうとしない現代社会は信じられない。ウソばかりである。言葉はウソの元凶に他ならぬ。
それなら言葉を要しない世界に入り込めば良い。そこにはもはや真実しかないのだから。ただし、言葉のないものが全て良いというわけではない。私が「Tubular Bells」にこだわるにはそれなりの理由がある。


それは無限の世界。イメージがイメージを生む世界。自ずと思想は拡大され、果ては真理をも掴み得るのだ! 自己の内面と対話し続けられる魔力を秘めているのである。
私が「Tubular Bells」という一枚のアルバムを飽きることなく聴き続けらる由縁はこうした所にある。


夢幻の自然と、思い描き得るだけの情念と、果てしなき快楽、解毒、恩恵、解放…とあとは ああ もう何でも良い。どうでも良くなってきた。
こういう時にこそ、「Tubular Bells」に身体を預けるのである。


その時私はそこにはいない。微笑を浮かべながら無限の世界に佇んでいるのである。

« 表裏一体 | もどる | 大関への一言 »